タイトルは煽りみたいなもんですが(笑)、やはり『カマクララ』の話がしたい。

別館の方でも書いたが(『カマクララ解題』参照)、この小説は一種の教養小説としても読める。

最初は、さながら精神医学の教養小説といった体をしている。

例えば「二重見当識」。

精神科には二重見当識という言葉がある。
患者が「薬は毒だ」と心の中で思っていたとしても、「薬を飲まないともっと酷いことになる」、「病棟生活をうまく送れない」という意識が勝れば、服薬を承諾してくれる。 このように一見すると背反する考えが同じ患者の中に共存することはありうることで、意外に思われるかもしれないが患者は困った際には二つの考えのどちらかを合理的に使い分ける。
このような心の状態を二重見当識という。


精神医学のやや専門的と思われる知識を入れ込んでくる。
ここら辺は普通の教養小説だ。

ちょっと凝っているのは「林田療法」だろう。

林田療法は、大正期に精神科医林田春馬によって提案された治療方法だ。
臥床や内省といった独特の技法で日本人に多いとされる神経症を治療する一時は趨勢を誇った治療法であった。「であった」というのは、その後の薬物療法や西欧から輸入された認知行動療法などの「モダン」な精神療法、そして ECT や rTMS といったデバイスを用いた「科学的」な治療法の隆盛で、次第にその勢いを失い、今では、ほぼ消滅したと言ってもいい治療法であったからだ。
林田療法は精神科の教科書には、その名を留めてはいるが、実際に見たことのある精神科医は稀だろう。

ある程度精神医学に馴染んでいる人からしたら、林田療法が森田療法とほとんど同一だということに気がつく。
そういう意味では精神医学的教養小説なのだが、わざわざ別の名前を与えることで、作者はこれがフィクションであること、「カマクララ時空」ともいうべき舞台で話が展開させることを読者にはっきりと自覚させる。


多少凝った側面はあるのだが、前半は精神医学的影響の強い教養小説の趣があるが、その合間に伏線をしっかりはってあることも指摘しておきたい。

今時、電子カルテが ID&パスワードのみの本人認証を行っていたり、担当者の小山田医療連携室長が DICOM と呼ばれる医療画像フォーマットのことを全く理解していなかったり、とややおかしいなと犬飼は思うところもあったが、「こんなところで知識をひけらかさなくても」と、そのとき彼は特にコメントはしなかった。

こういった側面は、「医療システム」に関する教養小説のようにも受け取れるだろう。しかし、この電子カルテの設定が後で物語を推し進めるガジェットになることをこの時点で予想できる読者はそうそうはいないと思う。



ところで、『カマクララ』はまだ乱雑に描かれた Ver 1.x が存在するだけで、細部はいまだに修正を続けている。
当初は、現実の症例からそのプロットを構築させていった経緯があるが、現在は「精神医学や医療システムの要素を散りばめながら、医療サスペンスとして成立させる」という方向に舵を切りつつあるようだ。

この方向性は素材を成仏させるのに、最適なパッケージであるように思える。



ウマ娘→マヤノトップガン→史実→天皇賞春、ときて田原騎手の存在を知った。

トウカイテイオーの有馬記念はアニメでも取り上げられていたので、動画でも観てもそれほどだったのだが、感動したのはマヤノトップガンの春天。

カンテレさんが動画もあげていてくれるので貼っておこう。




実況やカメラアングルの素晴らしさはコメントにも言及されていて言わずもがなだが、展開自体が凄すぎるでしょ。

しばらく田原騎手関係の動画漁ってましたね。

当然、クスリの件も知ることになったのだが、ワイが引っかかったのはそっちよりはいわゆる『サルノキング事件』。

際立った才能は、当人が意識するにせよしないにせよ何かと人々の注意を引く。
時には、身に覚えのない誹謗中傷を受けることもある。

サルノキング事件はまさしくこれだと思うのだが、現在は「あれは某新聞紙の記者のデッチアゲ記事」ということで理解されているようだ。
こういう騒ぎは大抵マスコミ側のゴリ押しで「白いものがクロ」になってしまう傾向があるように思うのだが、この件に関してはそれはならなかった。
こういうところは競馬ファンは優しいなあと思う。


ところで、この事件の顛末、何か既視感があるなあと思っていたのだが、この前気がついた。
『柩情報システムKT事件』だ
アーク情報システム小山哲央事件』だ。(最初に記事書いた時は関係者と調整中、ということでぼかしていたのだが、「実名で構わない」ということになったので訂正)

こう書いても何のことかわからないと思うのだが、興味を持った方はこの記事をお読みください。

前後の脈絡もなく唐突にデッチアゲの言説が出てくるあたり似ているでしょ?
TBR の時はマスコミ、この例では「オープンソース信者」。

あと、個人的に興味あるのは、こういったことをやらかしちゃった人がその後どういうキャリアを進のかってあたり。
検索(「小山哲央 XXXXX」)とかで普通に上がってくるもんなあ。消したくても消せなくなっちゃったよね。

(続く)

ワイは、技術的な事柄に関しては、一般的な講演を聴きに行くこともあるし、マイナーな勉強会にも顔を出すこともある。

感銘や洞察を得られるものもあれば、内容にまるっきり興味が持てず、聞いた後に何も残らないというものもある。

なかでも時間の無駄と思うことが多いのは、プログラミング工学系。

アジャイルだとかああいうやつ。

プログラミングなぞコード書いてナンボと思っている人間なので、ああいう御託優先のエセコンサルが跳梁跋扈するようなテーマはそれだけで興味が持てない。

・・・と思っていたのだが、マイナーな勉強会あたりだと興味深い内容に出会ったりすることがある。

最近、感銘を受けたのは、コンソーシアム開発方式とロジック再構成法というやつ。


まず、コンソーシアム開発方式だが、これはわかりやすい。
一言でいえば、オープンソースとプロプライエタリの中間形態。
ソースコードをオープンソースのように一般公開するのではなく、関係者のみに限定してしまう。
プロプライエタリと違うのは、ソースコードの配布を希望する主体がいた場合、一定の条件を満たせばそれを受け入れる点。
用語としては目新しいが、この言葉が指し示す状況は以前からあった。
例えば、大学研究室の実験装置を制御するプログラムの類。オープンソースプロジェクトのように仰々しくライセンスなどは決められていないが、研究室メンバー間ではソースは共有され、自由に改変されている。
あるいは企業間でクロスライセンスを結んだ共同開発のプロジェクト。これは説明するまでもないでしょう。
思うに、オープンソース/プロプライエタリという二分法は、オープンソース信者たちがオープンソースの優位性を説くために、過度に強調されている側面もあり、この言葉は、そういったものの見方に一石を投じる効果があるように思う。

次に、ロジック再構成法というやつ。
これも、「法」という言葉がついているので堅苦しいが、コーディングをする際に無意識的に行っていることだ。
例えば、あるプロジェクトのプラットフォームを変えるような場合。
移行先プロジェクトで元になるようなコードは一つもないのだから、元プロジェクトのロジックを抽出して、それが動作するようにアレンジすることになる。


どちらも、以前からある事象や行為に名前をつけたものだが、名前をつけただけでも、見通しがよくなる。
こういう概念の提案はなんかいいですね。


なお、これら方法論を意識的に使っている具体的なプロジェクトは、例えば、DolphORCA 。まだ生まれたてだが、PHORLIX もこの方式でいくようだ。

(追記)この記事が、むちゃくちゃ参考になる。

(追記2)最近、内輪で超アジャイル(Super Agile)というワードをよく使う。
究極のアジャイルって感じの開発方式なんだが、これはひょっとすると業界にも広まりそうな感じもあるので、手が空いた時にでも解説する。→とかいってたら gitlove さんが『君は超アジャイルという開発方式を知っているか』にまとめてくれました。









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